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「老い」について

 本ブログに度々登場する私お気に入りのアメリカの人気SFドラマ「新スタートレック」。そのエピソードの一つ。
 いつ、いかなる場面でも沈着冷静に行動し、何よりも論理的思考を重視する誇り高い種族、バルカン。その血をひく、スタートレックでは有名な登場人物であるスポック。そのスポックの父親のサレクが生涯最後の重要な任務を目前にして重大な病に冒されていることが発覚する。その病とは「ベンダイ(英雄)症候群」という。
 味気ないほどに何事にも動じないバルカンという種族、しかし実はもともと感情の起伏の激しい種族であり、そのため星のなかで争いが絶えなかった。平和な星にするために彼らが選んだ道が感情を身体の奥深くに閉じ込め、論理的思考と冷静さを身につけるというものだった。
 これまで幾多の星と交渉した英雄サレクが年老いて冒された「ベンダイ症候群」という病。これは身体の奥に閉じ込めた激しい感情の抑制が効かなくなる、バルカンにとっては屈辱的な病だ。論理的思考に裏付けられた気高さをもった人格が、やがて崩壊していき、それまで長い間押し殺していた乱れた強い感情、ドロドロとしたものが自分の老いた身体から放出されてしまうからだ。 エピソードでは主人公の一人であるピカード艦長が尊敬してやまないサレクの任務を、身を呈して助けるというストーリーとなっていた。

 今年80歳になる母、電話の向こうのその声に元気がない。訳を聞くと、1カ月ほど前、昔からの友達と電話で話をした時、会話のなかに違和感を感じることがあったという。心配になって先日そのお宅に再び電話をすると、ご主人が出て、彼女がアルツハイマーを発症し、施設に入ったことを知らされた。ご主人曰く、お見舞いに施設に行き帰宅すると、その後の施設での彼女が手がつけられないようになる、そのため施設の職員からもう来ないでほしいと言われたということだった。「日に日に、急激に人格が変わっていくんです。」 母は友達のご主人からそう聞かされたのだという。
 ついこの前までなんの屈託もなく、気軽にお喋りできていた友人。その友人が別の人になってしまった、という事実。ご主人にとってみれば日々変わらない毎日のなかで家のなかの、自分のなかの一部であったであろうパートナーが、同じ顔をしているのに別の人に変わっていってしまう事実。身体という器はそのままで、それを動かしている心がなくなってしまった最も身近な人を目の前にして、ただ戸惑う。
 
 高齢者スポーツが話題となるとき、こうした「老い」はあまり語られない。「老い」の闇は外に追いやられ、こうした現実は「若々しさ」や「元気さ」などの明るいものに隠され、みえないもの、ないものとされていく。しかし「老い」は誰にでもやってくる。病を連れて。失ったところに新たな創造の可能性は確かにあるだろう(天野正子『老いの近代』岩波書店、1999)。しかしその老いのために、病のために失ったことさえわからなくなってしまったなら、創造することすらできなかったらその時、どうなってしまうのだろう。 それもまた「自分」だといえるのだろうか。
 
「老い」に伴う衰退は、人生の後半にだれもが経験し、個人差もあり、そしていつどのように訪れるかわからないだけに不安も大きい。「老い」をどのように過ごすかは普遍のテーマといえる。新スタートレックのその後のエピソードでサレクは病が重症化し、現役時代とは全く違った人格となって苦しみながら、やはりピカード艦長によって穏やかな死を迎える。
 「老い」と「老い」が連れてくる病。生きて行く過程で今まさに迎えている「老い」。もちろん「老い」は一様ではないからすべての人が、人格が変わるような病をもつわけではない。クリスチャンである自分は、両親のことも、身近な友人のことも、自分のことも、すべてを神様に委ねるのみ、ただただ祈るのみだけれど。やはり、不安は去ってはくれない。

  
 
# by audreyyanenn | 2014-05-23 21:30

西尾康三先生からの贈り物

 以下は大学時代の恩師、西尾康三先生から、おそらく今から30年ほど前にいただいた原稿。今日のところは原稿をそのまま。


「私のスポーツ観」

 一 好きでする
 スポーツは、好きでするものです。積極的な姿勢が命なのです。与えられた練習計画を消化することに汲汲としないで、練習を追うのです。そうすれば、かえって、シンドクないのです。自分で秘かにもっている練習、これが大事なときの支えになるのです。
 スポーツで成績をあげたら、就職に有利、などと思うのは、邪道です。好きでするのですから、みかえりはあてにしないのです。

  二 ツキと流れ
 スポーツの世界で、よくツキとか流れとかいいますが、私はこの語を好みません。
 人事を尽して天命を待つ、そこで、はじめて、ツキということがいえるのですが、みなさん、はたしてそこまで、全力をつくしているのでしょうか。「ツキをよぶ努力、気力」といいますが、ツキだとおもっているものの九十パーセント以上は、努力、気力、実力によるものなのです。「ツイていない」というときも同様です。ツキのことをあまり気にするひとは、大体、強くならないようです。
 試合の流れ、というのも、気にしなければなんでもないものでしょう。もしありとすれば悪い流れをよい流れに変えるプレーのできるひとになってほしいと思います。
 これはキャプテンなどでない、ふだんあまり目立たない四年生が適役ではないでしょうか。このようなことのできるひとをもったチームは強いのです。

三 シーズンオフを大切に
 シーズンオフを無駄にしてはいけません。根本的な欠点をなおす、今迄できなかったプレーができるような筋力をつけることができるのは、シーズンオフです。シーズンオフは強くなる練習、シーズン中はその力を試合でフルに出して勝つための練習といってもよいでしょう。一年中の時期によって練習の目標がちがうのではないでしょうか。

四 よく考えよう
 スポーツマンはあまりものを考えないほうがよい、という風潮がありますが、私はよくないと思います。考えるべきときにはよく考え、何事についても、正しい判断力、価値観をもつべきものです。
 スポーツマンは技術家と似て、視野の狭いひとになり勝ちです。ほかのひとの考え方を知り、参考にする姿勢が大切です。その一つとして、広く、深く、本を読むことです。
 スポーツそのものに対しても、しっかりとした考えをもっているべきなのです。アジア大会の精神面強化合宿、なるものをテレビで見ましたが、「おれは強いんだ」といったような暗示をかけているのです。本当の精神的強さは、納得のいく練習からのみくるのではないでしょうか、近頃のスポーツ指導者は哲学が貧困で、それを心理学でおぎなおうとしているような気がしてなりません。

五 よく語ろう
 四年間一緒に練習し、試合し、苦労した同志、「あいつは食堂でいつもうどんを食べる、とか何色のシャツが好きだ」とかいったことはよく知っていても、果たして、どれだけお互いを奥深く知りあっているでしょうか。
 自分達が共通して大好きである、その牽引力に信頼をおいて、思い切りぶつかりあうのです。よく喧嘩した同志は、かえって後からはよい友人となるものです。
 プレーのことから始めて、お互いどんどん切りこんでゆきましょう。

六 信仰とスポーツ
 信仰をもつと、試合で平常心がもてて、よい成績があがることがあります。しかし、信仰はそんなためにあるものではありません。神様のために働く自分の人間をみがき、力をつけるためにスポーツをするのです。
 キリストを僕とする(利用する)のではなく、キリストのよき僕となるために、スポーツをするのです。
# by audreyyanenn | 2014-02-01 17:52

二人の学生;「自由」と「支配」、そして「暴力」

 もうかれこれ10年ほど前になるだろうか。ある授業を担当した時のこと。その学生A君は、いつも私からみて右手最前列の席に座っていた。授業のテーマは「健康」について。「健康」を社会学的視点でとらえ様々なトピックスを提示して学生たちに自分や社会にとっての「健康」とは何かを考えてもらおうとするものだ。授業が終わって学生達から回収する出席カード(出席した学生が自分の氏名と学生番号を記入して提出する出席の証拠となるもの)、A君は毎回、その6.5×9.5センチのカードの裏に几帳面な小さな字で十数行、意見や感想を書いてきた。それを読むのがその授業の後の私の楽しみにもなった。
 初めはカードの感想の主がその前列のイガグリ頭で銀縁のメガネをかけた彼とはわからなかった。カードは一括して回収、感想を読むのは授業が終わって自分の部屋にもどってからだったからだ。何回か授業が過ぎた頃、今となっては内容は覚えていないが、A君の書いた意見に対して、授業のなかで私がコメントしたことがあった。その授業が終わってから、私の右手に座っていた彼が私に近づいてきた。「先生、僕の意見はおかしかったでしょうか。」 毎回、几帳面で少し尖った感想を書いてきていた学生の顔と名前が初めて一致した瞬間。短い時間ではあるが楽しい議論のやりとりができた。
 聞くと彼は現役ではなかった。大学に来る前、しばらくの期間、自衛隊にいたのだという。「先生、自分でものを考えるってこんなに面白いことだったんですね。大学で初めて経験しました。」 メガネの奥の目がキラキラと光っていたのを今でも思い出す。自衛隊がどうこう、ということではない。それまで命令を忠実にこなしてきた制御された自分の脳を、大学に入って自由に羽ばたかせて楽しんでいるようにみえた。カードの裏にびっしりと並んだ文字たちは、その発露なのだとその時知った。
 
 それから何年かたってからのこと。ある一人の学生B君が大学を辞めたい、と相談にきた。大学を辞めて、就職したいのだという。理由は、やはり経済的なことか、それとも働いてお金を稼ぎたい?あるいはやりたい仕事が見つかったからか、とそれとなく問うこちらに対する彼の答えー。
 「大学は、自由すぎるからだめなんっすよ。」
 聞くと、その彼は何でも自分で決めなければならない状況が苦手なのだという。自分で立てた時間割、自分でその時間に間に合うように家を出ること、授業をサボっても怒られる訳でもない。でも「自己責任」というものが、後になって自分にのしかかる、そうした日常が苦しいのだという。「仕事だと決まった時間に行かないと怒られますよね。僕はそんな風に、人に決められている方が楽なんです。」
 
 今、ある本を読んでいる。ごく平凡な人間が人間に対して行う「暴力」について、「支配」との関係で論じられた本だ。この場合、支配関係は暴力を振るう人間と振るわれる人間の間にあるだけではない。ごくごく平凡な、理性をもった人間が目に見えないものに支配される状況にある時に、ごく自然に、妥当性を持って他者に暴力がふるわれる。暴力が振るわれるか否かは、本人が自分にのしかかる支配の力を敏感に嗅ぎ取り、その力に抗することが出来るか否かに関わっている。
  A君は隊のなかで命令に従う束縛(自衛隊のなかでの規律の支配)から解き放たれて思考の自由を満喫していた。そう、大学で学ぶということの楽しさの一つはこの「自由」にあるのだ。何ものからも支配されず自分でものを考え、自分の身体を自分の意志で動かす。ところが一方、B君は身体も思考も自由であることを不自由だと感じ、(就職先や社会からの)制御と束縛が楽なことだと言って支配されることを自ら望んで大学を去った。人間は支配されることを不自由と感じ、自由を求めるものだと思いがちだけれど、B君のように束縛され、支配されることが楽だと感じる人間もいるのか。
 否、支配されることを嫌っている人間、自由を求めているはずのその人間が実は、同時に支配されることを楽だと感じていることがあるのかもしれない。思い返せば私自身も若い頃、自分で考えることをせず、考えることそのものが害あることと感じて競技に専念していた時期があった。
 暴力は支配と深く関わっているという。社会のなかに常に存在する「暴力」、そして「体罰」の問題をどのように考えればよいのか。二人の学生との経験は、そのことを考える手掛かりになるように思える。
 
 
# by audreyyanenn | 2014-01-31 20:51

『オリンピック憲章』にはこのように

「〔根本原則〕
 …略…
  2.オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立てることにある。その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。
 …略…
  5.人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない。
 … 略 …
第1章
 9.オリンピック競技大会
 1- 『オリンピック競技大会』は、個人種目もしくは団体種目での選手間の競技であり、国家間の競技ではない。以下略…
 36.オリンピック競技大会
  …略…
  3-『オリンピック競技大会』を主催する名誉は、『オリンピック競技大会』の主催都市に指定された都市に、IOCによって託されるものである。
  …以下 略…  」(財団法人 日本オリンピック委員会 国際オリンピック委員会『オリンピック憲章 ETHICS 2007』 )

 『オリンピック憲章』をひもとくと、上記のような記述があった。2020年東京大会。ここにあるようなオリンピックの理念は、東京大会開催にあたって果たして共有されているのだろうか。というか、オリンピック開催地決定後、経済効果のように日本が、東京が盛り上がること、お祭り的なことばかりがもてはやされているように感じる。オリンピックの理念とすりあわせたときの東京大会開催への疑問、オリンピックがたどってきた過去の暗い歴史への立ち返りとそれを生かそうとする議論など、落ち着いた、醒めた感覚を持とうとすることが、なにか憚られるような空気を感じてしまうのは私だけだろうか。
 オリンピックは過去、戦争のために3度中止になり、東西冷戦の時代には「代理戦争」の場となり、そして選手村が民族対立のために血塗られたこともあり、今では大量のお金がその都市を中心に、選手や組織、プロモーターや企業間を激しく動き回る。その金額や多数の人々、国家やスポンサーのプレッシャーに打ち勝つために選手のなかには薬に手を出す者もあらわれる。そうした道をたどってきたオリンピックの、その根幹ともいえる憲章に明記されている「国家間の競技ではない」に反する現実や、そこで否定されている「国家」意識を刺激するメッセージは、オリンピック開催の華やかさのなかにひっそりと、でも確実にまぎれこんで例えばメディアを通して発せられている。
 予めいうならば、私はオリンピックを否定しているのではない。日本国民として自分の国を誇りたいとも思う。だからこそ。オリンピックの目標は人間の尊厳や平和の推進にあること(それはもちろん一つの国や都市のことではない)、オリンピック競技大会が「国家」が開催する大会ではないこと、そして競技大会は国家間で競うのではないこと。過去にオリンピックが経験してきた辛い出来事を乗り越えるためにもそれらのことに向き合う必要もあるだろう。そして何より、オリンピックはオリンピックとして、参加する多くの人々、観戦する世界中の人々の共有財産(お金という意味ではなく)であるべきもの。オリンピックを通じての世界の平和の実現、これは地球市民的思考によって初めて近づける、壮大な目標だと思う。このことは同時に、オリンピックが決して一つの国はもちろん一つの都市のもの、その「経済効果」の<道具>として存在しているのではないことを示している(あくまでも「経済効果」は「効果」であって、目的ではないはずだ)。
 開催都市が決定して間もなく、その都市を抱える国の、国民の代表者たちは、多くの人々の抗議に耳を傾けることなく、「特定秘密保護法」を成立させた。今後、国家が秘密を持つことが法律で認められ、限られた情報にコントロールされる私たち、これからのオリンピック開催準備の様々な出来事、次々と整備され変容していく都市の姿、そして上向きになっていく経済の状況に、私たちはいつの間にか目をくらまされてしまう。そのようななかでは理念について語ることなど、さぞ場違いなものになるだろう。「人間の尊厳の保持」「平和の推進」は益々遠ざかってしまいそうだ。
# by audreyyanenn | 2013-12-16 20:25

晩秋の朝、桜の古木の下にスナフキンがいた。

晩秋の朝、桜の古木の下にスナフキンがいた。_a0151656_18542031.jpg

 


 


 








 先週末の早朝、出張に出かけた。いつもは車を使うことが多いが今回は安全第一、普段めったに使わない駅から列車で行くことにした。列車を待つ間、ふとホームから向こうに眼を移すとそこには大きな桜の古木が。朝日を浴びてオレンジ色のグラデーションに色づいた葉はまだたっぷりとあるものの、落ちる直前のはかなさをそなえ、そのあたりだけが別の世界のようだった。
 桜の余韻に浸りながら列車に乗り込んで座席についたとき、ふと、あの桜の下にスナフキンがいたような心持になった。たっぷりの秋色の樹の下に、大きな帽子を目深にかぶってギターを抱えたあのスナフキンをみたような。
 スナフキンは、幼い頃に観たテレビ・アニメ「ムーミン」のなかの登場人物(?)だ。旅人だから決して裕福そうではない独特のスタイルで、静かに樹の下で座っている。村人から離れて孤独を愛し、冬になる前に旅に出て春になるとまた戻ってくる。主人公のムーミンにとってはよき理解者であり、頼りになる相談相手でもある。少々「へたれ(いくじがなくていつまでもぐずぐず悩む)」なムーミンが、下を向いてとぼとぼと歩いて森にやってくると、そこにはいつもスナフキンがいて、ギターを「ポロロン~♪」と爪弾く。「ねえ、ねえ、スナフキン、聞いてよぉ…」一所懸命思いを吐き出すムーミンの話を眼をつぶってじっと聞くスナフキン。そして、おもむろに「ねぇ、ムーミン…」と穏やかな口調で語りかける…。その温かな声は大きく広げたふわふわの羽根布団のように包容力たっぷりだったのを今でも覚えている。今の若者言葉でいえば<イケボ(イケテルボイスの略らしい)>。その声の主が西本浩行さんだったとついさっき、ネットで調べて知った。幼くおませだった私は、一時期このスナフキンと、ギターの「ポロロン~♪」、「ねぇムーミン」の声に夢中だった。
 写真は出張の朝から、4日経って撮影したもの。 あの時、秋色に色づいたキラキラした葉たちはすっかり落ちてしまっていた。あ~残念。葉が落ちてしまうのと同時に、スナフキンも旅に出てしまったようだ。
 もう秋も終わる。
 
# by audreyyanenn | 2013-12-03 19:44